何年経っても忘れられない過去

※ずっと引きずっていて辛い為、書く事で浄化できるかもと思い、書いてみます。

内容も暗くなる為、そのつもりでお読みください。

 

あまりの出来事だった為、記憶が所々飛んでいて、時系列も前後しているかもしれませんが、今現在も、頭の片隅に必ずあるため、忘れる事ができればと思い、書いて見ることにしました。

 

結婚していた頃の夫の事です。

見合いで結婚したような感じなので、あまり恋愛感情は、なかったかもしれません。夫には悪いけど。

 

夫は、転勤族の為、1〜2年ごとに引越ししました。

とても大変でした。結婚前からわかっていた事なので、それは私も覚悟していました。

子供もできて、4年くらい経った頃だったか。

今の職場の存続が怪しくなっているとの事。

(公務員でした。)

他の職場に異動するか、そのまま最後?まで残るかの選択をする事になりました。

この先の事を考えると、そのまま残るのは、先がないかもしれないという事で、別の職場(斡旋先が、あらかじめ用意されていました)に、移る事にしました。

今関わっている仕事内容に近い事もあり、今までの所を退職し、別の所へ転出しました。

行き先は、かなり遠い所で、行った事のない場所でした。

海を渡り、高速道路をひたすら走り、着いたのは夕方になっていました。

 

仕事柄、人里離れた山奥の山頂近く。

とても、田舎でした。今までも、同じように、畑のある場所が、主だったので、大体イメージしてましたが、けっこうな所でした。

住居は、ありましたが、造りがとても古いというか、寒冷地なのに、寒さに弱い家でした。

春だったけど、寒くて、ストーブも煙突式で、その部屋だけで、他の部屋は、ストーブ無し。

とても耐えられず、その晩は、上・下防寒着のジャンパー、ズボンを着たまま寝ました。

すぐ、各部屋に、電気ストーブを置きました。

台所も、外と同じくらいで、ストーブ無しでは、居られないほど。

虫もたくさん出ました。

とくに、カメムシ。臭くてイライラしました。明かりの近くも飛び回るし、風呂場にもたくさん出て、入る前に必ず退治してから入りました。

子供(娘)は、山を下って下の町の幼稚園に通う事になって、毎日、車で送り迎えしました。

だいたい、3キロくらい下ります。

自然の中なので、のびのびと、子供は毎日楽しく過ごしていました。

同じ職場の方々も、同じ場所にそれぞれ住んでいて、奥さん達とも、仲良くさせていただきました。

娘と1つ下の女の子のいる方がいて、よく一緒に遊んだりしました。

野生の動物もよく近くに来ました。

キジ、キツネ?たまに、日本カモシカも。

山の上なので、冬は寒く、夏は太陽に近いせいか、日差しが強かった。

私達は、冬の寒さに慣れていなくて、何度も水道が凍結してしまい、その度に、職場の方に電気のコードを巻いて溶かしてもらいました。

水道管が、家の中にあるはずが、昔凍結して使用できなくなって、なんと外にむき出しでつけられていた。考えられないけど、仕方ない。

とにかく、水を出しっぱなしにするしかないらしい。

玄関のドアも、よく凍結して、開かなくなる。急いでいる時は、とくに困るので、町まで下りて不凍液を買った。店の人にかなり不思議がられ、どこに使うのかと聞かれた。

町は、下なので暖かいのです。気温が、全然違う。雪もほとんど積もらない。

 

そんな過酷な生活が、1年近くなる頃だった。

 

その前から、夫の不調のサインが出ていたのでしょう。

私は、気づいてあげられなかった。

後で考えると、休日になると、夫は家に黙ってじっとしている事が多かった。会話も、ほとんどなかった。

でも私は、子供もいたので、あまり夫の異変に気づく事がなかった。ただ、いつもTVなども見ず、寝ていたり、黙って座っていたりが多いなと思っていた。

休日、一日は、子供の為に車で、県を超えて大きなショッピングモールへ行き、ゲームセンターや、買い物などをして過ごした。毎週そんな感じでいたが、店にいる間も、夫は、あまり楽そうでなく、疲れているようで、座っている事が多かった。表情も暗い感じだった。

その頃、かなり重くなっていたのだろう。

2月頃、子供の小学校入学もあり、勉強机を買った。日付けを覚えていないのだけど、机が届く予定の日だった。

 

その朝、夫はいつものように、私に仕事に行ってくると言って、出て行った。あさ早い為、私はまだ、布団の中にいた。

行ってらっしゃいと、いつも通りに伝えた。

午後、机の配達が来たが、雪が多くてトラックが雪に埋まってしまった。とりあえず、職場に電話して夫に伝えてもらおうと思った。

しかし、今日は、休んでいるとの事。

あれ?おかしい。出社したはずなのに。

それよりも、トラックをなんとかしないといけないので、職場の方々に来てもらって、車を助けてもらった。

娘の机を運んでもらい、配達は帰った。そしてすぐに、夫が休んでいる事について改めて聞いた。

無断欠勤だった。

とても嫌な予感がした。

 

職場の人達総出で、近くの森を探してもらった。

私は、パニック状態。とりあえず、娘を迎えに行き、すぐ、警察へ電話した。

行方不明である。

町の防災無線でも、呼びかけてもらった。

警察の方が来て、詳しく聞かれ、わかる事全てを話した。何か持ち出した物ないかと聞かれ、家中探すと、電気髭剃りが無かった。仕事に持っていくはずのない物だった。最近の写真を出してくださいと言われ、近くの渓谷で私と二人で撮った写真を渡した。それを手掛かりに捜索するとの事だった。ただ、言われたのは、ほとんどの場合、帰ってこない事が多いとの事だった。自分の意思で出て行った為、失踪でしょうとの事。

 

涙が止まらない。

 

まさか、子供と私を置いて出て行くなんて、信じられなかった。

夜になっても見つからない。

泣きながら、まず、夫の両親へ電話した。とても驚いていた。そして、私に、よろしく頼むと言われた。

次に、私の母に電話した。

もちろん、母も驚き、とりあえず、こっちに来てくれる事になった。

娘になんと言えばいいか。でも、私の様子を見ていて、なんとなく理解しているようだった。

私は、ずっと泣いていた。娘は、お母さん、泣かないで〜、と言っている。

私はとにかく、携帯電話をかけ続けた。呼び出して、すぐ、電話に出られない、という音声に切り替わる。何度も何度も繰り返す。

携帯電話を片時も離さず、ひっきりなしにかけ続けた。

夜が明けた。

職場の方々も心配してくれて、奥さん達が、食べ物を持って届けてくれた。本当にみなさんに心配をかけてしまった。

母は、翌々日くらいに、飛行機と電車を乗り継いで、ひとりで来てくれた。

母が来てくれて、かなり心強かった。

 

警察からその後連絡があり、夫が、隣りの県で、お金を下ろした事がわかった。当面の費用の為だったのか。でも、その後の足取りが分からない。やはり、もう帰って来ないつもりなのだろうか。

せめて、生きているのかどうか心配で、ひたすら、電話をかけ続け、その間、母は、娘の面倒をみてくれた。

本当にありがたかった。

幼稚園では、実は夫が、行方不明になった次の日が、餅つき大会だった。幼稚園も、一度は、中止にするか迷ったらしいけど、やっぱり楽しくやりましょう、との事で、予定通り行ってくれました。こんな時だけど、少しでも、楽しい思い出にしてと、娘と共に参加する事になった。

小さな集落だったし、家族ぐるみで行事をする幼稚園なので、みんな当然知っていた。

お父さん達は、男は一度くらい家出たくなる事あるもんだ、と言って、大丈夫だと声をかけてくれました。

お母さん達も、楽しく過ごしましょうと、私達を受け入れてくれました。

本当にありがたかった。申し訳ない気持ち、いたたまれない気持ちで、いっぱいだった。

 

そして、卒園式の日が来ました。

本当なら、両親揃って出席するはずだったけど、私一人で、服装も考えられず、地味なグレーのパンツスーツにしました。

本当は、喜ぶべき日なのに、私にとっては、辛い日でした。でも、娘の大切な記念日なので、できる限り笑顔をつくっていました。

もちろん、涙は出ます。

式が終わり、再び、先生や、お母さん達に、励まされて、大丈夫、きっと帰って来るよと言ってくれました。

 

もう、何日泣き続けただろう。

涙って枯れる事ないんですね。ずっと、出てくる。

 

その後、電話かけ続けて、ついに、繋がりました。

夫が、やっと出てくれた。今、どこにいるの?大丈夫なの?切られないように、でも話したい事、聞きたい事たくさんあって、話し続けました。

 

夫は、死ぬつもりで、家の近くの森の中を彷徨ったらしい。でも、死にきれず、そのまま、隣りの県へ行き、お金を下ろし、東京に行ったらしい。

そこで、ぼうっと座っていたら、知らない人に声をかけられ、バスに乗せられたとの事。

労働者を探してる人に会ったという事だった。

そして、どこかへ、連れて行かれて、たくさんいる部屋に入れられて、毎日、肉体労働をしているとの事でした。

とにかく、生きていてくれた事が嬉しかった。

そして、早く帰って来てほしいので、私は、できる限りの知恵を絞り出し、夫にそこから逃げるように指示をしました。

持っているお金が、ちゃんとあるか、荷物もあるか、そして、夜、誰にも見つからないようにそこを出るように言って、そして、とにかく、タクシーを拾って乗るように伝えました。たぶん。

私も、はっきり覚えていません。

夫は、わかったよと、とても素直に返事して、翌日だったか、私達の住む近くの電車の駅まで来ることができたらしい。

私は、すぐに支度をして、母に子供を頼み、タクシーで、駅に向かいました。

 

夫がいました。

何日ぶりだろう。かなり、やつれていました。

でも、生きて会えたのが、うれしかった。泣きながら、とりあえず、近くの喫茶店に入り、少し話しました。そして、すぐ連れて帰らなければと思い、駅前から二人でタクシーで、家に帰りました。

夫は、ほとんど話さなかったけれど、辛かったのは、間違いない状態でした。

お金もほとんど使ってなくて、正直ほっとしました。

家に着いて、母も喜んでくれました。

考えると、やや、一ヶ月くらいだったようです。母がとりあえず持ってきた、化粧品など、使い切っていて、私のを使ってもらっていたぐらいなので。

母も、まさかこんなに長くなるとは、思っていなかったと思います。本当にありがとう、お母さん。

 

夫は、心の病気になっていました。

まず、病院を調べて、隣りの県の病院へ行きました。

私も、感情が溢れ出し、先生にひたすら、泣きながら色々と話しました。

 

重いうつ病と、診断され、薬で治療する事になりました。

 

うつ病なんて、知らなかったので、今思うと、夫に逆効果な言葉を浴びせていました。

頑張れ、とか、寝てばかりだねー、とか、TV、新聞見ないの?とか。

言ってはいけない事を言ってしまっていたのです。

本当に、悪い事をしたと思いました。

でも、私は、その病気をよく知らなかったのです。

 

夫の両親にも、今までその都度、電話で連絡とっていました。

お義母さんは、そっちに行きたいけれど、田舎者だから、行き方が分からないので、よろしく頼むとの事でした。

ちょっと何か引っかかる気がしました。

私の母でさえ、一人で来れたのだけど。

自分達の息子が、家族置いて失踪したのだから、一大事なはず。来ようと思えば、人に聞いたり、調べたりして、来る事できたのではないかと思いました。

でも、それは、言わないようにしたけれど。

 

娘の小学校入学が近かったけれど、やっぱり、住み慣れた地元に帰るのがいちばんだと思い、夫の仕事も、病休にしてもらい、みんなで、帰る事になりました。

入学の準備した物、制服、帽子、上靴など、全てお店に取り消せるかお願いしたら、今回事情が事情なので、いいよと言って、お金払わなくていい事にしてくれました。本当に、色々、申し訳なく思っています。

 

帰って住む家も探さないといけない為、弟に色々と頼みました。全部やってくれました。保証人にも、なってくれました。

本当に、無理にお願いして、でも、全部やってくれたので、とても助かったし、ありがたかったです。

そうして、フェリーの予約をしたり、引っ越しの準備をして、バタバタと、そこを出ました。

当日は、みんな見送りに来てくれました。

本当に、お世話になってしまいました。

 

地元に帰ってからも、忙しかった。

娘の入学手続きです。ギリギリだったので、大変でした。

まだ、続きますが、ここまでにします。

次回へ続く。